Butterfly Kiss

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 予感はしていた。ソファーに座って文庫本を読んでいた最中(さなか)、不意にぷつんと集中力が途絶えたのだ。魔法学校の食堂で学友と会話を楽しんでいる主人公の顔が薄れ、賑やかな生徒の声と美味しそうな食事の香りは静寂とかすかな薔薇の残り香にすり替わる。
 陽の光を浴びて机の上で煌めくのはステンドグラスを模した栞。タロットカードをめくるような仕草で栞を手に取りそっと本に挟むと、リリーナはゆっくりと席を立った。
 ひらひらとカーテンを揺らしている風に音は無い。家の中は心地良い静けさに包まれていて、それを壊さないようリリーナの足取りも普段より少しだけ慎重になっている。そうして時間をかけて玄関に着くと同時、目の前で鍵の開く音がした。
「おかえりなさい、ヒイロ」
 ひっそりと開いていく扉の理由は中で待っている人物がまどろんでいた場合の妨げにならないようにする為だろう。その気遣いをくすぐったく思いながら、リリーナは朝見かけたばかりのいとしい人の顔を見上げた。
「……ただいま、リリーナ」
 驚き半分、納得半分。随分と顕著になった感情の終着点は思わず零れたような淡い笑い顔で、リリーナもそれと同じ表情を返した。
「読書をしていたのか」
「はい。来月には最新作が出るそうです」
 靴を脱いだ拍子に下がった視線。その端に捉えた文庫本の帯には次作の発売日と売り文句がでかでかと印刷されていた。宗教画にも似たタッチで描かれている表紙と帯の角の丸いフォントがどこかミスマッチである。
「あちらには面白い本が揃っているわ。借りてもすぐに読み終わってしまうもの」
「また借りにいけばいい」
 ウィナー・ホスピタルの読書ブースで取り扱っている書籍は膨大な量で、その分野も多岐にわたる。マリーネの病室へ顔を出した後は読書ブースで本を借り、家のソファーで文字を追うのが最近のリリーナの日課なのだ。
「そうですね。次は作者から探して……」
 先に廊下を行っていたリリーナの声と足音がそこで途切れる。ヒイロが様子を窺おうとしたが、それより早くうつくしい金糸の軌跡を髪に纏ってリリーナがヒイロの方を振り向いた。
「リリーナ?」
 ぐい、と近付けられた上半身にヒイロは思わず半歩後退る。意図が読めないまま、それでもリリーナは開いた分だけ距離を詰め、ヒイロの肩口にぽすんと顔を埋めた。瞬きの度に震える睫毛がヒイロの鎖骨をくすぐり、吐息が産毛を撫でていく。その間もカーテンは音も無く踊り続け、午後の陽射しを反射したり覆い隠したりと忙しない。それはまるで、ヒイロの素の鼓動のように。
 この姿勢ならいっそ抱き締めた方が互いに安定するのではないだろうか。頭の片隅でそう思案し始めたのを知ってか知らずか、リリーナは埋めてきた時と同じだけ唐突に顔を上げた。
「庭を見ていたのね? ヒイロ」
 その言葉でヒイロは理解した。
 昨晩にやっと雨が上がったばかりだからか、朝に出た時はまだ濡れた土の匂いの方が強かった。しかし、午後ともなると連日の雨でかき消されていた分を取り戻すかのように庭の花々が辺り一帯にその香りを散らしていたのだ。その香りがヒイロにも移っていて、リリーナはその残り香を嗅いでいただけなのだろう。他意……少なくともそういう意味での誘惑では無いと己に言い聞かせ、ヒイロは口を開いた。
「帰りに『秘密の庭園』を見に行った」
「綺麗でしたか?」
「ああ」
 よかったわ、と動く唇にヒイロは視線を落とす。心から嬉しそうに目を細めるリリーナはそれを目にした者にも同様の感情を抱かせるものではあるが、どうにもこの態勢では物理的な刺激がこそばゆい。主に睫毛が……と、そこまで考えたところでヒイロはとあることを思い出した。
「瞬きは蝶の羽ばたく様に似ていると言われている」
「そうなのですか?」
「ああ。そして、睫毛で相手に触れることをバタフライキスと呼ぶこともあるという」
「き……」
 す、という音は声になる前に息となって散らばった。何をどう言おうとしても出口を塞がれては為す術は無い。その相手がたったひとりのいとしい人であれば尚更。リリーナは突然のことに目を見開いたまま硬直していたが、じっと見つめてくる瞳の真っ直ぐさを目の当たりにし、慌ててきゅっと瞼を下ろした。
「…………仕返しだ」
「ヒイロ、あなた……もうっ」
 互いの呼吸が自由になって聞こえた第一声はどこか楽しげで、リリーナは仕返しのお返しとばかりに意地悪をするその唇をやわく食んだ。
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