ネジの巻けない自鳴琴の残響

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 広い会場を埋め尽くすかのような人の波。そんな中でその姿を見付けることができたのは奇跡であり、必然でもあった。
…………ヒイロ」
 リリーナは小さくその人物の名前を呼んだ。
 会場の警備を担当する職員として来ているのだろう。流れるように人を避けながら、スーツに取り付けてあるマイクに向かって何かを話している。その横顔は最後に会った数ヶ月前のものと大差無く、リリーナは心の中でひっそりと安堵の溜息をついた。
 言葉を交わしたい気持ちが全く無いとは言えない。想いを寄せている人と会話をしたいと願うのは自然なことだろう。
 しかし、それをするのは今では無い。互いに仕事中な上、声を掛けたところで何か問題が発生したのかと心配をかけてしまうことは目に見えている。だからといって仕事終わりに声をかけようとしても、すぐに帰られてしまえばどうしようも無い。
「複雑ですね…………
「様々な主義主張の人が訪れていますから」
 思わず零れた独り言は少し異なった意味で捉えられた。護衛も兼ねた秘書官のささやかな勘違いに話を合わせながら、リリーナは今回の会議について思いを巡らせる。
 当然のことではあるが、コロニー内にもそれぞれの自地区があり、その数だけ代表者が存在する。地球圏統一国家として宇宙と地球がひとつになっている今、同じ方向を目指していくには『コロニー』という大きな括りだけで物事を見てはならないとリリーナは考えた。
 だからこそ、数日間に渡って開かれる今回の大規模な会議なのだ。市民によって選出され、自治を任されている者であれば誰でも参加することができる。
 どれだけ些細なものであれ、コロニーの抱えている問題は地球圏統一国家全体の問題でもある。母数が増えることは問題それ自体が増えてしまう可能性も含んでいるが、母数が増えたからこそ、その解決策も幅広い視野で考えていけるとリリーナは信じている。
「次官、そろそろ」
「分かりました」
 そっと近付いてきた案内の者に呼ばれ、リリーナは護衛に囲まれながら歩き始めた。

 ***

 リリーナは今回の会議を開催するに当たっての功労者として、会議の冒頭で演説をする。その話が持ち上がった当時、主役はあくまでコロニーに住む市民なのだからと壇上に立つことを辞退しようとした。しかし、その市民からの強い希望によってリリーナの言葉が求められたのだ。それに応えたいと思ったからこそ、リリーナは今ここにいる。
「予定では左袖で待機でしたが、機材の兼ね合いで右から行くことになりました」
「登壇の位置は変わりありませんか?」
「はい。その他は予定通りです」
 規模が規模なので、人も多ければ会場も広い。こちらに気付いた者のほとんどは自然と道を譲ってくれているので歩き辛さは感じないが、直線距離はそれなりのものだ。
 リリーナは横目でさりげなくヒイロを探してみるが、やはりと言うべきか。少し目を離した隙に姿を消していた。
……見ていて、くれるかしら) 
 思い出すのは、会場の物陰から己に銃口を向けていたいつしかのヒイロの姿だ。結果としてその引き金が引かれることは無かったが、あの瞬間のあの光景はリリーナの記憶に焼き付いて離れずにいる。
 王女、そして女王陛下という肩書きこそ立派ではあったが、実際は成し遂げたいことと現実との乖離に悩み、激動の日々に呑まれそうになりながらも必死に生きていた。
 振り返ってみて思う。もしもあの時のリリーナが道を見失っていたのであれば、命を奪うことでヒイロはリリーナを救うつもりだったのだろう。
…………?)
 と、その時、リリーナの視界の端で何かがちかりと瞬いた。傍についていた秘書官や周囲の者もそれに気付いたようで、瞬時に警戒態勢へ入りながらあちこちに視線を巡らせる。
「お下がりください」
 辺りの空気が張りつめたものへと変化していく。言いようの無い不安が心をざわつかせ、リリーナは無意識の内に胸に手を当てた。
(ヒイロ……
 壇上からならまだしも、自分の居る舞台袖からでは会場のすべてを見ることは出来ない。もどかしさを感じつつ、状況を把握しようと隣の秘書官に声をかけようとした。
「伏せろ!」 
 だが、それより早く怒号にも似た悲鳴が会場に響き渡る。その残響が消えるのを待たずして、荒々しい足跡と逃げ惑う人々の困惑する声、そして銃声が一斉に押し寄せてくる。
 瞬時に混乱に陥った場内。リリーナは咄嗟に袖から出て様子を確認しようとしたが、寸前で護衛の者に制止される。 
「次官、こちらへ避難を」
「ですが、皆さんが、」
「あちらは大丈夫です。さぁ、お早く!」
 促されるままに人の渦の外周を進む。幸いにも出入口はすぐ近くにあり、一同は廊下に出て手早く扉を閉じる。空間が遮断されたことで生まれた静寂は、中の喧騒すら嘘のように思えてくるほどのものだった。
「何故……
 安心したのも束の間、今度は内の様子が気掛かりで仕方ない。呟きとも問いかけともとれる声がリリーナの口から零れ落ちると同時、秘書官の無線機が連絡を受信した。
『B7からG42へ。応答願う』
「こちらG42。要件を」
『事態は想定の範疇内。ついては、……
 ノイズが多かったが、聞こえてきた声は確かに覚えがある。かつてはガンダムのパイロットであり、現在はプリベンターに所属している張五飛のものだ。
(彼等が動くほどの事件なのですね……
 リリーナは目を伏せる。戦争の無くなった世界でも尚、彼等に戦いを強いてしまっている。そのことを思う度に息が詰まるような心地になるが、同時に心強くもある。
 彼等は彼等の戦いをしている。それは戦火を交えるものではなく、如何にして己の生き方を貫くかという『闘い』なのだ。
 だからこそ思えるのだ。リリーナには、リリーナの戦いがあると。その方法は違えど、見つめる先は同じなのだと。
……ならば、S16を最優先事項で行動せよ。以上だ』
「G42、了解した。……失礼しました、ドーリアン外務次官」
「わたくしは大丈夫です。それより、現状の説明をお願いできますか」
 通信を終えた秘書官はリリーナを見て頷くと、これは私が把握している限りですが、と前置きして話し始めた。
「南側の出入口付近に立っている者が不審な動きをしているとの情報が入っていたので、距離を取らせて頂きました。中の方は既に事が片付いています」
 その言葉でリリーナは合点がいった。待機場所が直前になって急に変更された理由はそこにあったのだ。
「ありがとうございます」
「いえ……私は指示を受けて動いたまでです。あちらの方からの」
 秘書官がす、と手を伸ばしてリリーナの後ろを示す。そこに立っていたのは、舞台袖に向かう間にどれほど探しても見付からなかった人物だった。 
(ヒイロ…………
 来てくれたのですね、と唇だけで続けた言葉は恐らく伝わったのだろう。注視していなければ気付かない程の動きであったが、ヒイロはリリーナの口元を見ると僅かに頷いた。
「相手の勢力を分散させた。一人ずつなら会場にいる者で対処できるだろう」
 聞くところによると、この会場を襲撃しようと企んでいる者の存在はプリベンターが事前に察知していた。しかし、その段階では証拠不十分で民間の警察に身柄を預けることは難しく、敢えて泳がせて表に出てきたところを現場で取り押さえるという選択肢を取ったのだ。
「ご協力、感謝します。では……次官、建物の外へ」
 護衛の者はヒイロに礼を伝え、リリーナを避難させようとした。しかし、肝心のリリーナは一向にその場から動こうとしない。
「次官?」
……ありがとうございます。ですが、だからこそ、あなた方は会場へ戻ってください」
 周囲の者は動揺しながらもリリーナに声をかけたが、その動揺は次の発言で更に加速する。
「先程、あちらの方はこう言いました。『一人ずつなら会場にいる者で対処できるだろう』と。つまり、襲撃犯は複数人いることになります。そして、その方々が狙っているのはわたくしとは限りません。あの場にいるすべての方々の身が、危険に晒されているのです」
 文字通りの独壇場だった。
 人気の少ない、静かな廊下に凛とした声が響く。マイクやライト、壇に上がる必要でさえ無い。リリーナが言葉を紡ぐだけで、それは人の心に語りかける『演説』になるのだ。皆が己の耳を疑っている中、ヒイロだけが小さく溜息を吐いている。
「そして今、事の真相を知ったあなた方だからこそ、冷静な判断と柔軟な対応で皆を守ることができるのだと、わたくしはそう思います」
……ッ、ですが、それでは次官の身が………!」
 護衛官の一人が声を絞り出す。
 会場に残っている者の安全の確保は確かに重要だ。しかし、護衛が全員向かうとなると、一体誰がリリーナを守るのか。問いをぶつけたのはその人物だけだったが、内心では皆同じことを思っていた。
 しかし、リリーナはその言葉にも動じず、微笑みを浮かべながら護衛全員の瞳を覗き込む。意志の強さをそっくりそのまま反映させた眼差しに射貫かれては、続く言葉も続かない。
 笑顔ひとつで場の主導権を握ると、リリーナは壁に背中を預けて立ったまま事の成り行きを見守っていたヒイロに声をかける。
「お願いできますか」
 ほんの一瞬、二人の視線が絡み合った。互いの瞳が相手の色を反射《うつ》し、水彩のようにふわりと溶けて混ざり込む。その輝きが同じだけ満ちた頃、ヒイロはす、と手を差し出した。ダンスにでも誘うかような、自然で、けれど洗練された仕草で。
……最初からそのつもりだ」
 そっと重ねた手のひらは確かな強さで握り返される。リリーナは小さく頷くと、ヒイロと一緒にそのまま廊下を駆けていった。

 ***

 少女は迷っていた。目の前には焼きたてのスコーンと香り豊かな湯気の上る紅茶、そして色とりどりのジャムが並んでいる。どの味から食べるべきなのか、そもそも何から手をつけるべきなのか。
「お茶会というものはこんなにも難しいのですね」
 しみじみと呟き、少女はゆっくりと背もたれに体重を預ける。そのまま部屋の天井を眺める表情は柔らかく、ささやかで、けれど贅沢なこの悩みでさえも楽しんでいるようだった。
「何もかもが初めは簡単ではないのです。自分の心を決めることでさえも」
 少女の向かいに座っている女性が言う。目を伏せて紅茶を口にする様子には思わず目を奪われるが、よく観察するとその仕草は一挙一動がきびきびとしており、女性が軍属だったことが垣間見える。
「自分の、心…………
 女性の言葉を反芻しながら少女は視線を下に向ける。お気に入りのキャミワンピの裾から覗いているのは日に焼けていない白い足。とある事件で受けた傷の後遺症で歩行機能を失った足だ。
 その膝の上で小さな手が拳を作る。少女は長く息を吐くと、赤い髪をふわりと広げながら勢いよく顔を上げた。
「でしたら、私からひとつお願いがあります」
 翳りの無い瞳が真っ直ぐ女性を捉える。かつての、他者を下に見ていた目付きは見る影も無い。少女のまなざしは、今の自分のすべてを以てして相手と向き合おうという気概で満ちていた。
……レディさん。私、リリーナさんをお茶会に招きたいのです」
「外務次官を?」
「ずっと思っていました……あの時、お礼を言いそびれてしまったと。もしもリリーナさんが気にしていなかったとしても、私が気にします。これは、私が進む為に必要なことなのです」
 マリーメイアという名を持つ少女は自身の心境を吐露する。呂律の回りきっていない発声に反し、その内容には見かけの年齢にそぐわない深みがあった。
 女性……レディ・アンはそんなマリーメイアを見て既視感を覚えた。だがそれは少女の父親にあたるトレーズの面影では無く、現在も言葉を翼にして宇宙を飛び回っている少女の意志の強さだった。
……ならば、まずはお姫様を迎えに行く必要があるな」
 レディは空になったティーカップをソーサーの上に置くと、手元の通信端末を起動させた。途端に、その画面には文字なのか数字なのかでさえ判別するのが困難な速度で情報が表示されては流れていく。
 その顔付きは先程までの柔らかいものとは一転して険しく、マリーメイアはレディを中心とするプリベンターが動かなければならない程の何かが起きたのだと悟る。
「アフタヌーンティーの続きはまた今度になりそうですね?」
「その時には次官も来るでしょう……尤も、王子様の許可が下りればの話ではありますが」
「王子様?」
 マリーメイアは目を瞬かせる。レディはコンパクトミラーで手早く口紅を塗り直すと、どこか悪戯っぽさを感じさせる笑顔をマリーメイアに向けた。
「姫には王子がいるのが物語のお約束というものなのです」

 ***

 扉を開けて部屋に入り、人が居ないことを確認すると別の扉から通路に出る。『関係者以外立入禁止』のロープを跨いで階段を下ると、その先には狭く薄暗い通路が現れた。
 見慣れない光景の連続に、この会場はここまで複雑だっただろうかとリリーナは疑問に思わざるを得ない。リリーナ自身も事前に施設案内図を確認し、実際に何度も見て回った筈なのだが。
「ヒイロ。この道は?」
「この会場を建てる時に作業員が使っていたものだ。普通は完成と同時に塞がれる」
 知らないのも無理は無い、と言外に言うヒイロ。ならば何故あなたは知っているのと訊ねようとしたが、どうやらそんなリリーナの思考はお見通しのようで、口を開くより早く答えが返ってきた。
「ここにウイングゼロを隠していたことがある」
 それですべての納得がいった。A.C.196の末に起こったマリーメイア軍による反乱。その収束と同時にこの宇宙から姿を消した、白い翼を持つモビルスーツ。そのパイロットがヒイロだったのだ。
 記憶の中の姿を思い浮かべながら、リリーナはぐるりと辺りを見回した。以前にもウイングゼロを隠していた場所を訪れたことはあったのだが、今回のこの場所も同じなのだと思うと何か不思議な巡り合わせを感じる。
「このホールの建造は10年前から行われていた」
「軍による厳しい統治の影響で施工が大幅に遅れたと聞いています。完成したのはつい最近だということも」
「俺は場所を使う代わりに工事を手伝っていた」
 この話はこれで終わりだと言わんばかりに先を歩き始めた背中を見て、リリーナはぱちりと大きく瞬きをする。そして小走りでその隣まで追い付くと、ヒイロの顔をそうっと覗き込んだ。
「何だ」 
「ありがとう、ヒイロ」
 花の幻を纏ってふわりと笑顔が開いた。薄暗いこの空間においてその眩しさは鮮烈で、目を逸らそうにも逸らせない。疼きにも似た胸の痛みが増していくのを自覚しながら、ヒイロは吐き出す息に言葉を乗せる。
……礼を言われる理由が無い」
「わたくしが言いたくなっただけなのです。お気になさらず」
 そう言い切られてしまえば為す術は他に無い。押し黙ったヒイロを見てリリーナは満足気な笑顔を浮かべていたが、ふと、その表情が翳る。
「会議はどうなるのでしょうか」
 襲撃犯の身柄拘束と、参加者の身の安全の確保。事前に対策が練られていたことを加味しても、迅速な対応だったと言えるだろう。
 だからといって、じゃあ安心して会議をしましょうという訳にもいかない。各地域の自治における主要人物が一同に集うだけで相当のリスクが伴っているのだ。この騒動に乗じて良からぬことを企む者がいる可能性も考える必要がある。
「それを決めるのも会議だ」
「そう……そうですね」
 現状、これ以上リリーナにできることは残っていない。襲撃犯が何を目的としていたのかはどれだけ訊いても答えてくれなかったが、裏を返せばリリーナに言うのは憚られる内容なのだろう。それが気遣いであることは十分に理解しているが、自分の力の至らなさは変わらず重くのしかかってくる。
 いつになく深い息をついたリリーナに思うところがあっのだろう。ヒイロはおもむろに着ていたジャケットを脱ぐと、通路脇に置かれていた台の上に広げてそこに腰掛けた。
……じきにプリベンターの迎えが来る。それまでは寝ていろ」
「ありがとう……でも、起きています」
 そう言いながらもリリーナはヒイロの隣に座る。当然ながら、台は台に過ぎず、人が二人も座ることは想定していない。リリーナは思っていた以上の狭さにバランスを崩しかけたが、伸びてきた腕に肩を引き寄せられて未然に終わる。
「理由でもあるのか」
「眠ってしまえば、わたくしはきっと、これが夢だと思ってしまうわ」
 姿勢が安定したのを確認して、ヒイロの腕がゆっくりと離れていく。その代わりにと、リリーナは少しだけヒイロの方に身体を傾けた。
 途端に襲いかかってくる心地良さと抗い難い眠気。あまりにも分かりやすい自身の変化に、リリーナは心の中で小さく笑った。
「随分と物騒な夢だな」 
「いいえ、」
 朧気になり始めた意識の中でも、不思議とその声は鮮明に聞こえてくる。リリーナは短く否定の言葉を入れると、
回らない口の代わりに今の気持ちを表情に乗せた。
「あなたが……ここに、わたくしのすぐ近くにいて……それはとても、とても幸せな夢なのよ、ヒイロ………
 言い終わると同時に、ふっとリリーナの全身から力が抜ける。倒れ込んできた身体を受け取めれば、その体温は記憶しているよりも低く、いっそ頼りなく感じるほどだった。
 ヒイロは呼吸に合わせて上下する肩を眺めていたが、ややあってリリーナの身体を持ち上げると静かに歩き出した。 
 
***
 
 何者かが近付いてくる気配がしてヒイロは目を開ける。どうやら警備員や会場の職員、そして一般人とも違うようだ。靴音を抑えながらもすぐに受身が取れるような姿勢を維持しているのは、明らかにその手のプロフェッショナルの動きである。
 ヒイロは眠っているリリーナを自分の身体の影に入るように抱え直し、振り向くと同時に銃を突きつけた。だが、そこに立っていたのは思いもよらない人物だった。
「よっ、相変わらずだな」
……デュオ」
「いや~困った困った! 五飛のやつ、この俺がわざわざ遊びに行ってやったってのに、どうせ暇だろうって言って勝手に俺を使いやがったんだぜ?」
 どうしてお前が、とヒイロが訊ねるより早く経緯を話し始めたのは、デュオが生粋のお喋りだからか。やれやれと大袈裟に頭を振る仕草に合わせて長い三つ編みが揺れている。
 目の前で古時計の振り子のように左右に動くそれを銃身で退けると、ヒイロは低く、そして静かに呟いた。
…………少しは声を抑えろ」
「ちえっ。せっかくの再会だってのにツレないヤツだなぁ〜ヒイロは!」
「もう一度言う、声を抑えろ」
 語気を鋭くしてヒイロは繰り返す。デュオはいかにも不服ですといった顔をしていたが、ヒイロの背中に隠れるようにして座っている人物に気付くとあぁ、と声を上げて納得した。
……で、大丈夫なのか? お嬢さんは」
「寝ているだけだ…………睡眠不足と疲労、それに軽度の貧血だが」
 ヒイロは銃を下げ、リリーナの乱れた髪をそっと直してやった。楽しい夢でも見ているのか、それとも眠っていてもヒイロに触れられたと分かるのか。リリーナはほんの少しだけ身動ぎをすると、ゆっくりとその唇に弧を描いた。
 デュオはそんなリリーナにも目を見開いたが、ヒイロの表情を見て更に驚愕した。本人は全くの無意識なのだろうが、かすかにその口角が上がっていたのだ。
…………ったく、手のかかるお姫様と王子様が居たもんだ」
「何の話だ」
「へいへい、ただの独り言ですよ……っと、来たか」
 デュオが言うと同時、出入口の前へ車が滑り込んできた。これには二人とも見覚えがある。政府が独自に所有している防弾仕様の護衛車両だ。
「お待たせ。遅くなったわ」
 車から降りてきた人物はサリィだった。普段のプリベンターのジャケットではなくスーツを身に纏っているものの、歩いてくるその動きからはその下には防弾チョッキを着こんでいることが分かる。臨戦態勢と言っても過言では無いにも関わらず笑顔を絶やさないのは流石といったところだろう。
「デュオ、制圧ご苦労様」
「まっ、ちゃあんと報酬出るって分かっているんでね。お易い御用だぜ」
「ヒイロもありがとう。助かったわ」
「そういう任務だ」
 サリィはそれぞれに声をかけると、最後にリリーナに目をやった。余程安心しているのだろう。そこに浮かんでいる表情は外務次官としての気高く凛としたものでは無く、歳相応のもののように思えた。
「彼女は?」 
「寝たままにしておいてくれ」 
「そうね……でも、それはあなた次第だと思うわ」
 サリィは首を傾げて微笑む。リリーナのその指先はヒイロの服の裾を掴み、小さな皺を生み出していたのだ。 
 いつの間に、とヒイロは純粋にそう思った。任務中ということで常よりも感覚を研ぎ澄ましていたので、リリーナの方にも変化があれば気付けた筈だ。しかし、記憶を辿ってみても、どのタイミングでリリーナがこうしたのか一切見当がつかなかった。それほどまでに彼女の存在はヒイロにとっての自然になりつつあったのだ。
 静かに、けれど確かに動揺しているヒイロにサリィは声をかける。大人よりも早く大人になってしまったこの子達が歳相応の素顔を見せることができるのは、恐らく互いしか居ないのだろう。
「ねぇ、ヒイロ。私としても、そろそろ彼女に休暇を取って欲しいと思っているのだけれど……どう? その間、仕事してみない?」
「だってよ、ヒイロ。俺もお前が適任だと思うぜ?」
……………………
 示し合わせたように同じ類いの笑顔を浮かべるサリィとデュオ。ヒイロはそんな二人を交互に見ると、深く、深く溜息をついた。 

 ***

 その後、一連の事件の真相解明と事後処理が終わるまでの期間、リリーナ・ドーリアン外務次官には休暇が言い渡された。謹慎や待機命令では無く、外務長官直々の純粋な労いだ。その為、自由を満喫することも可能だったのだが、その期間中に外務次官がどこで何をしていたのかという詳細がメディアで報じられることは無かった。
 ただ、外務次官に似た風貌の女学生が大きなテディベアを抱え、恋人と思われる生徒と肩を並べてL1コロニーの学園都市を歩いていたという噂がその期間中にひっそりと広まっていたことは、事実としてここに書き残しておく。

 ***

…………あ」
 雑踏の喧騒を縫うようにして、かすかな呟きが鼓膜を震わせる。音のする方に目を向ければ、白い帽子の影の中、リリーナは商店街の街並みに視線を向けていた。
 ヒイロは無言でその軌跡を辿る。車道を越え、行き交う人々のそのまた奥。歩道で瑞々しく葉を広げる街路樹の前に、ひときわ古めかしい外装の土産屋が佇んでいた。
 その陳列棚にずらりと並んでいるのは動物を模した人形。ヒイロがその中に子熊の姿を見つけたのと、リリーナが口を開いたのは同時だった。
「ヒイロ、ここに寄っても?」

 ***

「お嬢さん、えらい美人さんだねぇ。モデルさんか何かかい?」
「ふふ、ありがとうございます。これでも、あのクイーン・リリーナに似ているだなんて言われているんですよ?」
「ああ! どこかで見たことある顔だと思ったら。でも、お嬢さんみたいに茶目っ気のある子の方があたしは好きだね」
「まぁ」
 リリーナは口元に手を当てて笑う。幸いにも他の客の姿は見当たらず、店の中は二人と、店番をしている店主の三人だけだった。
『一時的な滞在だ。何か言われても他人の空似で通せばいい』
 そう提案したのはヒイロだが、あまりにも堂に入っているその様には感心せざるを得ない。更に盛り上がるリリーナと店主の会話を耳に入れながら、ヒイロは飾られている人形に目をやった。特別興味や関心がある訳では無く、気になる点があるとすればリリーナが好むかどうかだけだった。
 そんな心持ちで店内を見て回っていたヒイロだが、ふと、その足がぴたりと止まる。陳列棚の中央の、芝生を模した布の上。そこに鎮座していたのは、一匹の子犬の人形だった。
『お兄ちゃん、迷子?』
 脳裏に響くのは、いつしか出会った少女の声。蘇るのは肺いっぱいに吸い込んだ空気の匂いと、渡された花の色の鮮やかさ。遠ざかる子犬の声までもが一瞬の内に通り過ぎていった。
……俺は、」
 あの時と同じ台詞を呟きかけて、ヒイロは口を噤む。己の戦いは既にひとつの終幕を迎えた。思い出すことはあれど、そこに滲む後悔は過去のものとなりつつある。
 もう、迷子では無い。
 近付いてくる足音に耳を澄ませながら、ヒイロは子犬の瞳へ静かに背を向けた。
「ここにいたのですね、ヒイロ」
「なん、……
 振り返りながらの返事は途中で途切れた。リリーナの声がした方に目を向けてみたが、そこには大きなテディベアがあるだけだった。
「驚きました?」
 より正確に言えば、あまりにもテディベアが大きいので、それを抱いているリリーナの上半身が完全に隠れてしまっていたのだ。
 リリーナは笑いながらその影からひょっこりと顔を出すと、固まっているヒイロに向き直って腕を伸ばした。
「とてもふわふわなのよ。触ってみてください」 
 ずい、と目の前に差し出された茶色の毛並み。期待で満ちたまなざしを向けられても、人工のもの、それも量産品にしては上質な部類だろうという感想しか抱けず、触れたところでそれが変わるとは思えない。
 だからといってリリーナの行動を無下にすることなど到底できる筈も無く、数秒の躊躇の後、ヒイロはぎこちなさの残る仕草で手を動かした。しかし、その軌道はテディベアを素通りし、ゆるやかに減速するとそのままリリーナの頭へと着地した。
…………あ、あの? ヒイロ」
「なんだ」
「その、わたくしではなく……この子を、なの、ですが……
 戸惑いと恥じらいの入り混じった声でリリーナはヒイロに問う。頭上の手とヒイロの顔を行き来する視線は忙しなく、不自然に瞬きが繰り返されている。
 ヒイロは無言でそんなリリーナを見ていたが、何を思ったのか、確かにそうと分かる動きでリリーナの頭をするりと撫でた。咄嗟にリリーナは目を伏せたが、却ってヒイロの手と自分の心臓の音を意識してしまう結果になってしまった。
 どのくらい時間が経ったのかも分からない。店の中に響いているであろう空調と時計の音はやけに遠く聞こえた。気恥ずかしさに包まれた妙な沈黙の中、珍しいことにヒイロが先に口を開いた。
……買ってやる」
「え……?」
「そいつはおまえが撫でてやればいい」
 そう言ってヒイロはテディベアを受け取ると、ひょいと片手で抱き上げて歩き始めた。店主の元へ会計をしに行く背中を見送りながら、リリーナはぼんやりと考える。
 自分の役目があのテディベアを撫でることであれば、そんなリリーナを撫でるのは、ヒイロの役目ということになるのだろうか。
 そこまで考えて、今度こそリリーナは頬を薔薇色に染め上げた。未だに残っている掌の感覚をなぞるように己の頭へ手をやると、湧き上がる感情のままにかたちの良い唇を動かした。
「ありがとう、ヒイロ」
 その声が聞こえたかのようにテディベアを抱えたヒイロが戻ってくる。リリーナは微笑みながらそれを迎え入れると、もう一度同じ台詞を口にするのだった。

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