「そろそろ休憩にしましょう」
リリーナは自分に言い聞かせるように呟くと、ペンから手を離して背もたれに身体を預けた。何度か深呼吸を繰り返せば、集中で張り詰めていた心がゆっくりとほぐれていく。
無意識に五感を遮断していたという訳では無い。風が吹けばその音が耳にまっすぐ届く程、この湖畔はやわらかな静寂に満ちているのだ。
光と、水と、風と、草木。その中にいる何よりもたいせつなひとと、その隣で微笑む自分。
まるで幼子に読み聞かせる絵本の中の情景をぎゅっと詰め込んだ世界だ。現実と幻との境目が曖昧で、時の流れから外れ、まるでずっと終わらない夢の中にいるような感覚。この家に来てからというものの、それは徐々に色濃くなっている。
「眠っていた間のバースデープレゼントなのかしら?」
冗談めかして声に出し、そして言い得て妙だとリリーナは頷く。あの人……ヒイロ・ユイが、世間と距離を置きながら過ごすのに適しているという理由だけでここを選ぶ筈が無い。
ヒイロがリリーナへ渡してくれたものは『平和』なのだろう。そうだという確信がリリーナにはあった。地球の、コロニーの、火星の、万人の為の平和ではなく、リリーナ・ドーリアンという個人の平和。
そして、その平和を守り、分かち合っていくというヒイロからの約束。
「……お返しに、困ってしまうわ」
途方に暮れた呟きに反し、心の奥は喜びで満ち溢れている。心臓が上下するのに、血が巡るのに合わせ、感情がゆっくりと全身に行き渡り、知らずの内に口元が微笑みを形作っていた。
「私も……貴方に渡したいものが沢山あります。ヒイロ」
リリーナは再びペンを手に取る。休憩は終わりだ。心が決まった以上、休憩などしている場合では無い。部屋を巡るやわらかな風はリリーナの髪をかすかに靡かせ、薔薇の香りで以てその背中を優しく押した。
***
「……リリーナ」
「おかえりなさい、ヒイロ」
玄関口でヒイロは立ち止まっていた。否、立ち止まらざるを得なかった。靴を脱いで上がろうにもリリーナが目の前で行く手を塞いでいて、到底両脇をすり抜けさせてはくれそうになかった。
(今度は何だ?)
笑顔は不可侵の防御だ。意図してのものであれ、そうでない場合であれ、その裏を勘繰ることについて大抵の人間は抵抗を覚える。
リリーナが今浮かべている笑顔は間違いなく防御だ。何かを隠し、それを悟られぬよう振る舞う為の鎧。
「急ぎの用か」
「はい。貴方に話があります」
「何だ」
リリーナの言う『話』の内容は想像もつかないが、リリーナにとって急ぎの案件ならばヒイロにとってもそれは同様だ。言葉尻に被せるようにして続きを促せば、リリーナはずっと後ろに回していた手をここで漸く前に持ってきた。
「はい。どうぞ」
唐突に眼前に差し出された白い封筒に何時かの記憶が刺激される。破いた感覚とそれを目にしたリリーナの表情が蘇り、受け取るのに一瞬の躊躇が生まれた。
それを知ってか知らずか、リリーナは息を零して笑いながら「読んでみてください」と言った。視線で促され、ヒイロは封筒と同じだけ上質な手触りの便箋を取り出して目を通した。
「サン・テグジュペリか」
「はい」
そこに綴られていたのはたった数行の英文。ヒイロは既に暗記したその内容を己の舌の上で諳んじる。
「……『Love does not consist in gazing at each other, but in looking together in the same direction.』」
「『愛とはお互いを見つめ合うことではなく、共に同じ方向を見つめることである』です」
理解ができなかった。内容を読み上げてみても、リリーナの声で反芻されても、この文言を手紙にして、今、ヒイロに渡してくるその理由が。リリーナは無意味な行動をしないという信頼が却ってヒイロの困惑を加速させている。 「リリーナ、」
「ヒイロ。ありがとうございます」
「……何がだ」
「これから先も、私は貴方の輝きを見続けることができるのですね」
ヒイロの瞼がかすかに震える。手元の便箋に落としたままの視線をリリーナに戻すと、そこには透き通る二対の瞳があった。
湖。生まれ故郷の青だけを残して光を湛え、澄み渡る輝きを放っている。その輝きはやがて声となり、滑らかに、歌うように零れ落ちた。
「私も貴方も、ずっと前から愛を知っていました。そうよね、ヒイロ」
便箋を持つ手にリリーナの指が触れ、そのまま閉じ込めるかのように包まれる。
その温度と感触にヒイロはかすかに口の端を上げると、リリーナの額と己の額をこつんと重ね合わせた。
「やっと気付いたか」
睫毛の先さえ触れ合いそうな距離の中、ヒイロの声は穏やかな風となり、眼前の二対の湖面を愛おしさで揺らめかせた。
