Jeux d'eau

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 波の音が耳の奥へ降り積もる。かすかな揺らぎを残しながら消えていく音の重なりは、やがてある瞬間を境に静寂へと移り変わる。
 凪。
 風も無く、そして音も無く。存在するのはただただ穏やかな湖面。透き通った湖水は水底の様子を寸分違わず映し出し、いずれ訪れるであろう夜明けの光を今か今かと待ちわびているのだ。
(寂寥……いや、)
 ふと浮かんだ形容表現を即座に打ち消す。頭の片隅で再生されているのは、静寂と寂寥は異なるものなのだと朝食の席で語る声。その唇が形作る微笑みや瞬きの度に羽ばたく睫毛の影を伴い、まるで記録映像のリプレイのように記憶が蘇る。
 世間が、世界がどう変わろうと、その人物が己に齎す影響力だけは相も変わらず絶大だ。根拠を見出して現実の事象と照らし合わせるより早く、条件反射的に納得してしまうのだから相当のものなのだろう。
(随分と、丸くなった)
 だが、悪くない。そう思うことのできる自分自身に内心で苦笑していると、丁度そのタイミングで部屋の扉がか細い音を立てて開いていく。ゆるやかに生まれる隙間からゆっくりと部屋へ入ってきたその人物は、控えた足音を連れてソファーに座るヒイロの元へと真っ直ぐに向かっていった。
「ヒイロ」
「起きていたのか……」
「いいえ、眠っていました。でも、どうしてかしら。起きてしまって」
 首を傾げる仕草や口調からも起き抜けの気配は見られない。恐らくは目覚めてすぐ再び眠ろうとしたがそれが叶わず、だからこそここに来たのだろう。長時間の睡眠を必要としないヒイロが時折、こうしてソファーで夜を明かしていることを知っていて。
「きっと、ヒイロと一緒に居るようにと夢から追い出されてしまったのね」
 リリーナはそう言いながらも自分の発言の内容の可笑しさに肩を震わせているネグリジェの上をさらさらと流れる金の波はさながら星の移動の軌跡のようで、ヒイロはしばらくの間、目を奪われていると自覚しながらも視線が逸らせないままでいた。
「……ふふっ、ごめんなさい、ヒイロ」
「構わない……夜はまだ続く。何か飲むか」
「でしたら、アイスココアをお願いします」
 返ってきた言葉にヒイロはそれで良いのかと視線で問いかける。夏とはいえ、昼間と夜間では当然気温差が発生する。今晩は汗ばむような気温では無いからこそ、積極的に身体を冷やすべきでは無いだろう。
 そう考えたヒイロだが、どうやら杞憂だったようだ。どこか悪戯めいた光をたたえるリリーナの瞳はこの選択が意図的なものだと暗に告げている。それが示すところを正しく理解したヒイロは、かすかに口角を上げると席を立った。
「なら、オレはホットコーヒーを淹れる。それで十分だろう」
 冷たいものと温かいものをひとりずつ。熱さや冷たさが過ぎたとしても、お互いで中和すれば良い。リリーナらしい思考回路だ。
 その思考回路の持ち主はといえば、ヒイロから上手く言葉を引き出すことができて嬉しいのだろう。最近の彼女にしては珍しく、ヒイロがキッチンに入っても聞こえるような声量で話しかけてきた。
「ヒイロ」
「ああ」
「ありがとう。大好きよ」
「………………」
 水で濯ごうとしたカップがシンクに滑り落ちる。ゴトリと鳴った鈍い音は胸の動悸のそれにも似ていて、拾い上げようとしたカップは思わぬ類似点の発見の影響でごろりとシンクの上を転がる羽目になった。蛇口から水が流れたままだというのに、向こうの部屋のソファーにいるリリーナの潜めた笑い声がやけに大きく聞こえたような気がした。
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