Siesta

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 花弁を白い掌で掬っているような、シンプルかつ上品なデザインのティーカップ。金の淵にそっと口付けをすれば、注がれた紅茶の甘さと温かさが直に伝わってくる。鼻を通り抜ける涼しげな香りは午後の陽射しを少しだけ和らげてくれているようで、リリーナは目を閉じたまま小さく唇を動かした。
「このまま眠ったら……
 とても素敵な夢が見れるに違いない。木の葉の揺れる音を遠くに聴きながら、リリーナはそう確信していた。五感で受け取るものすべてが愛おしく、こみ上げてくる感情は色鮮やかにリリーナの内側で広がっていく。
 こんなにも晴れ晴れとした気分になったのは何時以来だろうか。少なくともこの惑星《火星》で目覚めてからは一度もそのような経験は無かった。
「眠いのか」
「そうかもしれません」
 投げかけられる声は湖面に映る雲にも近い。多くを語らず流れていくが、その存在は天候の変化に大きな影響を及ぼし、空の意味を成す。煌めく水面の風景を思い起こしたのを最後に、リリーナはゆっくりと瞼を開いていく。
「私が今ここで眠れば、貴方は最後まで席を立たないでしょう?」
 少し伸びた前髪に隠れた瞳からは確かな驚愕の色が見える。果実と一緒に飾り付けられたマカロンを皿からひとつ摘んだ手は空中で静止し、零れ落ちた生地の欠片が風にさらわれていった。
「そうよね? ヒイロ」
 まばゆい白のガーデンテーブルに目を細め、そのまま小首を傾げて微笑みかける。ヒイロは無言のままだったが、無音という訳でも無く、向かいからは焼菓子に歯を立てる小気味よい音がかすかに聞こえてきた。
 リリーナもまた両手で頬杖をついて何も言わずにその様子を眺めていたが、ふと、その表情に焦りと戸惑いがじわりと滲み始める。それもその筈。テーブルの上で陽の光と風のされるがままになっていた左手を、ヒイロが突然握ってきたのだからだ。
「ヒイロ……?」
「考えないのか」
 その行動の理由を問おうとしたものの、逆にヒイロから問いかけられる。けれどその内容は主語が省かれていて、リリーナにとっては脈絡の無いものにしか思えない。辛うじて立てられるのは、『ここで眠ったとしたら』という発言を聞いて何か思うところがあったのだろうという予想だ。それ以上は見当もつかない。
「何を、でしょうか」
……オレが」
「はい」
 リリーナはヒイロの言葉を待つ。こういう時は急かさず、相手のタイミングに任せた方が良い返事が聞けると知っている。
 それは人心掌握術の応用などでは無い。リリーナだからこそ分かる、ヒイロに特別働く直観によるものだ。その証拠にヒイロはたっぷり息を吸った後、やや躊躇いがちに口を開いた。
「オレが、お前の寝込みを襲うと考えなかったのか」
「寝込みを襲う……?」
 絞り出すような声は懺悔のようだった。そこまで言い難い内容なのだろうかと心配に思っていたからこそ、出てきた単語をリリーナは何の躊躇いもなく反芻することができた。そしてその数秒後、遅れてその意味を理解する。
……それは、そのままの意味で…………?」
「他にどんな意味がある」
 どこか拗ねたような声音での肯定に、リリーナの顔から体の隅々まで瞬時に熱が行き渡る。それは繋がれた左手も例外では無く、その温度を確かめるかのように手の甲を指の腹で撫でられ、指の間にヒイロの指を絡めるかたちできゅっと握り直された。
……わたくしを、襲うつもり?」
「そのつもりなら、どうする」
 答えを乞うように向けられる視線が容赦無く胸を刺してくる。その傷口から広がるものが痛みではなく甘さなのだから、いよいよ思考までもが熱に侵食されているのではないだろうかとリリーナは他人事のようにそう思った。
 息をひとつ、瞬きをひとつ。答えはずっと前から決まっていて、それは今も変わらない。リリーナはヒイロの手を握り返すと、乗せられるだけの想いを込めて言の葉を降り注がせた。
「歓迎します。でも、事前に言ってくださいね?」
…………それは、」
 最早『襲う』とは言わないんじゃないのか。
 続く筈だった台詞はリリーナの有無を言わせない笑顔を前に飲み込む他無く、しかしヒイロの顔にありありと表れていた。それを見た上でリリーナが抜かりなく紅茶を勧めてくるのだから、ヒイロはもう、何も言わなかった。
……やはり、こいつには敵わない)
 ヒイロの前髪を風が揺らす。露わになった瞳は穏やかに細められていて、それは不思議と向かいに座っている人物の見せる仕草とよく似ていた。



 その晩、枕を脇に抱えて「寝込みを襲いに来た」とリリーナの寝室の扉を叩いたヒイロに、リリーナは今度こそ声を上げて笑ったのだった。
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