
もしも誰かからこの状況に至る理由を訊かれたとして「好奇心と憧れ」といった内容を返すのだろう。普段はすらすらと出てくる言葉も、今回ばかりはそれ以外の表現が見つからない。今のリリーナを突き動かしているのは混じり気の無い、単純明快で純粋な感情なのだから。
「さぁ、ヒイロ」
向かいの席に座っているのはリボンを衣替えしたテディベアと、ドーリアン邸から持ってきたお気に入りの革製のトランク。その中には三日分の着替えと、宿や食事に困らない最低限額のお金が詰め込まれている。
「早くわたくしを探しにいらっしゃい」
窓の外を流れていく景色の上にリリーナの笑顔が映り込む。かすかな呟きは列車の走行音に掻き消され、その声が誰かに届くことは無かった。
***
その日のヒイロ・ユイは不機嫌だった。そもそもヒイロ・ユイの機嫌が良かったことの方が稀なのだが、ここまで一目見てそうだと分かりやすいのは久しい。それこそ、数年前―戦時中の―出来事以来なのではないだろうか。
デュオはぱっと脳内に浮かんだ推測を記憶と照合し、深く頷く。そして、本日何度目もしれない説明を口にした。
「連絡した通りだ。お前のところのお嬢さんが家出したんだよ。しかも、ご丁寧にプリベンター宛てに書き置きまで残して」
「何だそれは」
「あのなぁ~お前が何だそれはって言うから親切な俺がわざわざこうして説明してやったってのにその言い方は無いだろ!」
鍛えられた肺活量をふんだんに使い、デュオは一息で思いの丈を叫ぶ。どこかで聞いた『馬の耳に念仏』という諺が頭を過ったが、相手に伝わるかどうかは些細な問題だ。この場合、叫ばないとやってらない、というのがデュオの正直な感想だった。
(お前のところのお嬢さんってのも否定してねぇし!)
あるいは、それを気にする暇も無く頭を回転させているのか。任務遂行にあたって極限まで無駄を省くところのあるヒイロは時に、ある程度は柔軟である筈のデュオでも驚愕するような策を講じることがある。こと現外務次官絡みとなればその傾向は更に程度を増すと知っているデュオは、穏便に済むようにと願うばかりだ。
「で。これがその書き置きだ」
ヒイロは会議机の上に置かれている一通の手紙に顔を近付ける。デュオの独断おせっかいでヒイロへ送ってきた画像データには事前に目を通していたが、実際に見てみないことには分からないというのが正直なところだった。
『家出します。急用の際はお手数ですが探し出してください。リリーナ・ドーリアン』
書かれていたのはたったそれだけの簡潔な文章だった。流れるような、それでいて雑さを感じさせない筆記体。文字をゆっくり綴るだけの余裕、時間があったことが十分に見て取れる。
「筆跡は本人のもので間違い無い」
「お前、お嬢さんの書いた文字見たことあんのかよ……」
「臨時秘書に就いていて目にしない方が珍しい」
「へいへい。そういうことにしておきますって」
事件に巻き込まれた可能性は限り無く低い。が、リリーナが置き手紙を書く理由とは一体何なのだろうか。ヒイロは思案し、数秒の後にこう結論付けた。
「理由が何であれ、本人に訊くのが確実だ」
そう言うと思ったぜ、と言いかけたデュオは唐突に理解する。この状況下でヒイロがその選択肢を取ることをリリーナが予想できない筈が無い。それに加えて、元々外務次官は十日間に及ぶ休暇の最中なのだ。最初から答えは出ていたようなものだろう。
「…………あー……」
「何だ」
「いや、どうして俺はこう、毎度毎度律義に巻き込まれるんだろうな……と」
「俺が知るか」
「だぁーッ!! だから、訊いておいてそれは無いだろそれは……っておい! ちったぁ人様の有難い話を聞けって!」
用は済んだとばかりに部屋を後にするヒイロの背中にデュオは言い募る。やっぱり叫びでもしなければ付き合ってられないと思いながらも、数年前よりも人間「らしさ」の増した戦友を見送るその顔には穏やかな笑顔が浮かんでいた。
***
「……ん、」
リリーナがふと目を開けると、列車の中は既に灯りに照らされていた。いつの間に眠っていたのだろう。長い長いトンネルに入り、代わり映えしない景色にうつらうつらとしていたところまでは覚えているのだが。
「起きたか」
記憶を思い起こそうとして、聞こえてきた声に思考が霧散する。トランクの隣、向かいの席。そこにはテディベアでは無く、よく見知った人物の姿があった。
「……驚いたわ。ずっとわたくしの寝姿を?」
「二つ前の駅からだ」
その言葉に内心安堵するものの、補足として告げられた駅名は主要都市間の移動距離が長いことで名の知られている地域のもので、それは実質「ずっと」の類語なのではとリリーナは思った。
「叱らないのですか?」
「休暇中の人間がどこに行こうがその人間の自由だ」
「でも、家出をしました」
「行き先の分かり切った家出はただの外出だ」
「学生のあなたに仕事をさせてしまったわ」
「任務なら誘拐された可能性の否定で完了している」
その後の行動は自己の判断だと暗に言うヒイロに、リリーナはぱちぱちと瞬きを繰り返していた。その口から零れる言葉はあまりにもリリーナにとって都合が良く、まるで己がまだ夢の中にいるかのように思えるほどだ。
「あなたも、休暇を……わたくしと?」
「……そうとも言う」
確認の言葉に返ってきたのは、少しだけ遠回しな肯定。その声音に滲む感情は紛れも無くヒイロ個人の欲求で、リリーナは小さく笑い声を響かせた。
「困ったわ。この子を連れてきた意味が無くなってしまいました」
「休暇中に見つければいい」
「そうね。ヒイロがいれば、幾つでも見つけられるわ」
列車は緩やかに減速してく。間もなく到着するであろう駅で降りたとしても、席を立たずにこのまま終着駅まで揺られていたとしても、楽しめるであろうことに変わりは無い。リリーナは大小二人の同伴者を交互に見遣ると、とびきりの笑顔の花を咲かせた。
小旅行はまだ、始まったばかり。