CLEAR

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 待ち受けていた光景を目にした時、リリーナを襲ったのは微笑ましさや愛おしさといった類いの感情だった。

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 ────チーン♪

 ベルを模した軽やかな電子音が響く。リビングで本を読んでいたリリーナは脇に置いてあったミトンを手に着けると、急ぎ足でキッチンの方へと向かっていった。
「今度は上手く焼けたかしら?」
 期待と不安の織り交ざる心を奮い立たせるように、リリーナは敢えて明るい口調で言う。もっとも、クッキーの美味しさは一回目で既に実証されている。レシピの手順を守りされすれば、味においての失敗は有り得ない。
 ただ、形となるとそうもいかない。シートの上でほろほろ崩れてしまったり、ちゃんと固まっているかと思いきや歪だったり。うっかり余熱を忘れて大惨事になりかけたこともある。そんなこんなで、リリーナがクッキーの試作をするのはこれで四回目になる。
「今度こそ」
 成功していますように。そんな願いが通じたのか、湯気と良い匂いに包まれたオーブンの中には、綺麗にまるく焼き上がったクッキーがちょこんと鎮座していた。
……やっぱり、何でもできてしまうのね…………
 リリーナは下受け皿を濡れ布巾の上に乗せながらしみじみとそう呟く。ジュッと水の蒸発する音を聞きながら思うのは、四回目に挑むリリーナにそれとなくアドバイスをくれたヒイロのことだ。
 綺麗に焼けたことは勿論嬉しい。しかし、ヒイロがそう言ったのだから当然その通りになるのだろうという納得がありとあらゆる感情を凌駕している。
……ひとまずは、お礼を言いにいかなくてはなりませんね」
 帰ってくるのは夕方かと思いきや、午後になったばかりの頃合いにヒイロは家の玄関に立っていた。用事を済ませるついでだと言って日用品をどっさり買い込んできたその姿に、むしろ買い出しが用事だったのではないかとリリーナは思ってしまった。ちゃんと仕事はしてきたそうなのだが。
 その後、買ってきたものを整理すると言ってヒイロは家の中を行き来している。リリーナが生地を作っていた時はリビングで何かをしていたのだが、いつの間にかどこかに消えていた。庭には出ていないだろうと目星をつけ、寝室、レストルーム、裏口とリリーナは順番にヒイロを探し歩いていく。
「懐かしいわ……
 隠れている訳でも無いのに見付からない。人によっては意地が悪いと怒ってしまうのかもしれないが、リリーナはこの状況を楽しく思っている。リリーナがヒイロと出会って間もない頃、任務で各地を転々とするヒイロをよく追い掛けにいったものだ。
 今となってはそれをしたくとも追い掛けたい相手がすぐ傍にいるので叶わない。けれど、追い掛けている間も、待っている間も、そして傍にいる間も。ヒイロのことを想っている時はいつだって、リリーナの中に唯一無二の感情が湧き上がってくる。窓から見えるあの湖の水面のように、透明で、澄んでいて、その想いを抱いてどこまでも飛んでいけそうな、そんな感情が。
「残っているのは……浴室かしら」
 行った場所を指折り数え、立ったままの指でくるりと宙に円を描く。近くを通りかかった時には水音がしていなかったので、そこには居ないと思い込んでいた。何も浴室だからといって絶対的に水を使う訳では無いというのに。
(やっぱり)
 リリーナの想像通り、浴室の扉には人影が映り込んでいた。耳を澄ませばとくとくと液体が注がれる音がかすかに聞こえてくる。残りが少なくなっていたシャンプーや洗顔フォームなどを詰め替えてくれているのだろう。
 邪魔をしないように、気取られないように。心の中でそう唱えながら、少しだけ開いている扉の隙間からリリーナはひょっこりと顔を出す。
 そうして待ち受けた光景を目にした時、リリーナを襲ったのは微笑ましさや愛おしさといった類いの感情だった。
 ヒイロは浴室の床に座り込んで作業をしていた。決して狭くは無い空間だというのに、律儀に隅の方で、それも肩を少しばかり丸めて黙々と手を動かしている
 その姿には既視感があった。リリーナは首を傾げ、そして思い至る。ウィナー・ホスピタルの敷地内には手入れの行き届いた小さな自然公園があり、天気の良い日はよく陽だまりで犬や猫が寛いでいる。ヒイロの姿はその動物達に似ているのだ。
 リリーナは目を細めてその様子を見守っていた。
「焼けたのか」
「はい。今は冷ましているところです」
 突然かかる声にも今更驚きはしない。ことリリーナの気配となるとヒイロはすぐに察知する。それこそ飼い主の帰宅に機敏に反応する動物のようだ、と思ったところでリリーナは唇をきゅっと引き結ぶ。ここで笑うのは些か不自然が過ぎるだろう。
「形も整っています。ヒイロのおかげですね」
「作ったのはお前だ、リリーナ」
 少し古い型のオーブンは室温によって予熱が完了するまでの時間が変わってくるという。その場合、『何分の加熱で何度』という換算でどうしても誤差が生じ、結果として料理の質が落ちてしまう可能性がある。購入した時に付いてきた説明書を片手にヒイロはそう教えてくれた。
「そちらは?」
「これで最後だ」
「では、お茶にしましょう。きっとクッキーも良い具合に冷めていると思います」
……ああ」
 ボトルをきゅっと閉めて棚に入れると、ヒイロはゆっくりと立ち上がる。無駄の無い、けれど程良く力の抜けたその仕草を見て、やっぱりあの子達みたいだわ、とリリーナはこっそり笑った。

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