SWEETY&MELTY

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 紅茶を口にして初めに知覚したのは違和感だった。温度こそ最適だが、異様に甘い。次いで浮かんできたのは己がカップを取り違えた可能性だが、テーブルの上にあるもうひとつのカップを見る限りではそうでも無さそうだ。淵に描かれた金の蔦模様の違いからもそれは分かる。尤も、判別には向いていない程の僅かな違いだが。
 考えられるのは、リリーナが両方にミルクや砂糖の類いを入れたということ。単に取り違えただけならば、リリーナの飲む紅茶はストレートのままだ。甘くしてから味わうのが好みだということを思えば、口にした時点で何かしらの反応を見せるだろう。それが無いことを踏まえれば、おのずと状況は見えてくる。
「ヒイロ?」
 思考の向かう先が己と感じ取ったのか、あるいは単に視線に気付いただけなのか。リリーナは読んでいた本から顔を上げると、ヒイロの隣で不思議そうな表情を浮かべていた。
「大したことじゃない」
「そう…………そうね、ふふ」
 リリーナは肩を震わせながら楽しげに息を零す。それに合わせて髪の先がヒイロの腕に散らばり、爽やかな柑橘系の石鹸の香りがふわりと広がる。それからもリリーナは笑っていたが、切り替えの意味を込めているであろう深呼吸をひとつした後、その理由を告げた。 
「取り留めも無いようなことを、時間をかけて考える。それはとても……とても素敵なことなのよ」
 噛み締めるように、言い聞かせるように。ひとつひとつの言葉は心地好く空気を揺らし、澱み無くヒイロの元へと届けられる。
 舌の上に残る紅茶の香りも甘ければ、向けられる視線や声も同様だ。紅茶で温まった身体が寄り掛かってきた頃合いで、ヒイロは口を開いた。 
……大したことじゃないと言ったが」
 見上げてくる瞳に映る己の姿を認識する。嘘偽りは無いにしても、この先を言葉にすることへの躊躇は否めない。どうしてもこういう言い方しかできないことを歯痒く思いつつ、そんな自分を許したのは他でも無いリリーナなのだ。自棄という訳では無いが、若干諦めたような心持ちでヒイロは続ける。
「おまえに関することはすべて最優先事項だ」
 沈黙。瞬き。そして理解。じっと言葉を待っていたリリーナは目を見開いて睫毛を震わせると、じわりじわりと赤く染まる頬を両手で押さえた。何も無い空間に散らばる視線は時折ヒイロに向けられ、そしてまた逸らされる。
……ヒイロ、ひとつ訊いても良いかしら」
 何か言葉を返そうと唇を動かすものの、音が生まれないままにきゅっと引き結ばれる。そんな状態が続いて優に数分は経過しただろう。リリーナの一向に落ち着かない心音とは反対に、そっと問いかける声は随分と小さかった。
「考えていたというのは、わたくしのことを……?」
「それ以外に何がある」
 短く返すヒイロの声もほとんど囁きに近い。夜明けの湖の凪いだ水面にも似た静寂がその場に流れていた。互いの息が触れ合い、ゆるやかに頬を撫でていく。
 ふと、その空気がかすかに揺らぐ。まるで磁力に引かれたかのように、二人を隔てていた距離がゆっくりと縮まっていく。あまりの近さに焦点が合わなくなってからやっと、リリーナが慌てたように瞼を下ろす。音も無く触れ合った柔らかな感触は今となっては慣れたもので、そこに残る紅茶の香りだけがその瞬間において真新しかった。
「ん……っ」 
 そんな風に情報を整理していると、唐突にざらついたものが唇に触れてきた。間近で聞こえる鼻にかかった声を認識した瞬間、条件反射的にそれがリリーナの舌だと理解する。
「んぅ、ん…………っん!?」
 だからといって舌先を押し当ててくる意図までもが分かる筈も無く、試しにゆるく歯を立ててみると、大袈裟な程にびくんとリリーナの身体が跳ねた。ヒイロは片目を開けて抵抗する素振りが見られないことを確認すると、驚いた拍子で僅かに開いた口へ舌を滑り込ませる。
「んっ…………ン、んッ、……んぅーー…………
 角度が変わる度に口付けは深くなり、息継ぎをする時間さえも奪っていく。リリーナは最初こそ侵入してきた舌に翻弄されて身動きが取れずにいたが、されるがままの方が不思議と心地良いこと気付いてからは緊張の糸が解れていった。
 とはいえ、呼吸は苦しくなっていく一方で。離れてもすぐに重なる口ではまともに酸素を取り込むことなどできず、だからといって鼻で息ができるほどキスに慣れている訳でも無い。閉じた瞳にじわりと生理的な涙が浮かび始めた辺りで、ぢゅ、と音を立ててひときわ強く舌が吸われた。
…………っ、んん…………っふは、ぁ…………ッ」
 それを最後にヒイロの動きが止まる。深く長い口付けから解放されたリリーナはしばらく胸を押さえていたが、息を深く吸い込むと目の前のヒイロをちらりと見上げた。
……ぁ、あの…………ヒイロ?」
「何だ」 
…………少々、長いのではなくて?」
 何が、とは言えなかった。言葉が続かなかったとも言う。涙のヴェール越しとはいえ、この近さなのだ。ヒイロの唇が唾液で濡れている様を目にしたリリーナは、否応無しに先程自分達が何をしていたのかを認識せざるを得なかった。
「息が……止まってしまうのかと思ったわ」
「まだ苦しいか」
「いいえ。でも……
 整わない呼吸は余韻か、それとも緊張か。唇が震える度に感覚が蘇り、舌が縺れそうになる。それでもどうにか絞り出した言葉に返ってきたのは、いつもに増して渋い表情と沈黙だった。
「ヒイロは……今ので足りたのかしら?」
……………
 乱れた髪もそのままに己を見上げてくるリリーナに、ヒイロは内心で溜息をつく。こういう時にそういうことを迂闊に言うべきでは無いと知らないのかと思う反面、知っていたら知っていたで却って他の問題が発生する。
 返す答えは決まりきっているが、それを知った上でリリーナがどう出るかまでは流石に読めない。一息つきたいのか、あるいは──。
……わたくしは紅茶ではありませんが」
 そこまで考えた辺りで、唐突に軽い衝撃がぽすんと身体に走る。視線を下に向ければ、リリーナの顔がヒイロの胸元に埋められているのが目に映った。細く白い指がしばらく服の上を彷徨っていたが、鎖骨の真下辺りでその動きを止めると、くい、と生地を引っ張ってきた。
「おかわりは……お好きなだけ、…………どうぞ?」
 くぐもった小さな声はそう発したのを最後に沈黙した。それでも髪の隙間から覗く耳は熟れた果実のように赤く染まり、今のリリーナの心境を雄弁に物語っている。
…………リリーナ」
 あの紅茶以上の甘さがあるものなのかと、苛立ちにもよく似た感情が心の奥底で中で渦を巻く。それは欲求の─より的確に言えば欲望の裏返しであるのだと既にヒイロは認識している。
 どれだけ思考を重ねたとしても、結局は潤む瞳に魅せられ、吸い込まれ、白旗を揚げてしまうのだ。理屈を取り払った後に残る素の感情の疼くまま、ヒイロは口を動かした。
「今度はちゃんと息をしろ」
 言い終わると同時に両手を添えてリリーナの顔を自分の方に向けさせれば、驚きで見開かれていた瞳に瞼のカーテンが降りていく。澄み渡る青が完全に見えなくなるのを待って、ヒイロは零れる吐息ごと、その唇の甘さを堪能するのだった。

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