SIGHT

ライン画像

 視線を感じる。それも、隠す気の無い類いの。
 ヒイロはあくまで手元の本に集中している体を取りながら、隣に座っているリリーナがこちらを見つめてくる理由について考える。本の内容は何度か目を通したものであり、さして重要でも無い。
 何より、ヒイロにとってのリリーナはいつだって最優先事項なのだ。任務という言葉が無くなった今でもそれは変わらない。
 ヒイロは試しに本のページを捲ってみる。次章の題名が刻み込まれているセピア色の紙は音も立てずにふわりと揺れ、新たな内容の幕が開かれた。リリーナはしばらく本を眺めていたが、少し顔を伏せた後、またヒイロの横顔を見つめ始めた。
(本の内容は関係無いのか)
 視界の右側に映り込む微笑みから読み取れることはそう多くない。出会って間もない頃ならいざ知らず、今でさえヒイロの予想を超えた思考を展開させることのあるリリーナなのだ。
 己とは異なる軸を中心に据え置いている存在を理解することは、この専門書を読み解くことよりもはるかに難しいだろう。そう判断したヒイロは静かに本を閉じるとリリーナに向き直る。その行動は予想外だったのか、長い睫毛に縁取られた瞳がぱちぱちと瞬いていた。
 けれどそれも束の間のことで、澄んだ色を湛えた湖がやわらかく細められると同時、リリーナがそっと口を開いた。
「どうすればいいのかしら」
……何がだ」
 話が見えない以上、そう返す以外の選択肢は無い。困惑しているのはヒイロも同じだが、リリーナはその言葉に反してどこか嬉しそうだ。より正確に言うのであれば、「楽しそう」が近い表現だろう。
 そんなリリーナが浮かべているものと似た表情をヒイロは何度か目にしたことがある。朝食のパンに合わせるのはジャムか蜂蜜かで迷っていたり、新しいシャンプーの香りを選んでいたりと、いずれの場合も選択をそれも個人で責任の取れる範囲で迫られていた。
「あなたの横顔も見ていたいのに、こちらを向いているのも嬉しいわ」
…………
 だから今回も何か嬉しい悩みを抱えているのだろうと予想はしていたが、まさかその対象が自分とは思いもよらず。今度はヒイロが目の前のリリーナを無言で見つめる番になった。
「本当に嬉しいのよ? こんなにも近くで、ずっと見ることができるだなんて……
 続く内容は説明とも感想ともとれるものだった。ヒイロを返す言葉を考えながら聞こえてくる声に耳を傾けていたが、その瞳の底で不安の影が揺らめいているのを見るや否や、姿勢を変えてリリーナの頬に両手を添えた。
……ヒイロ?」
…………本当に満足しているのか?」
 本がソファーの上を滑っていく。ごとりと鈍い音を立てて床に落ちる様子をリリーナは横目で見ていたが、余所見をするなと言わんばかりにヒイロの指が目尻をなぞっていく。その仕草は涙を拭う時のものにも似ていて、リリーナは目を閉じるとあたたかい手のひらに頬を擦り寄せた。
……満足は、しているわ。だからこそ、今以上を望んで良いのかが……時々、分からなくなるの」
 まるでそれが唯一のよすがであるかのような丁寧さでリリーナはヒイロの両手に自分のものを重ねる。触れ合った部分から伝わる体温は紛れも無く生きている証で、そう思えば思うほど、不思議と泣きたい気持ちになっていく。
「好きに望めばいい。好きに選べばいい。叶うかどうかはまた別の話だ」
「好きに……そう、そうね。ヒイロ」
 リリーナはヒイロの発言を反芻すると、深く息を吸い込む。深呼吸を繰り返した後に開かれた瞳にはもう影は無く、普段の色に戻っていた。
「ねぇ、ヒイロ?」
「何だ」
「わたくし、今よりもっと近くであなたを見てみたいわ」
……そうか」
「そうよ。ふふっ、これは叶いそうかしら?」
 その「近く」が概念的なものでは無かった場合、叶うも何も既に相当の至近距離なのだ。これ以上近付けば確実に視界はぼやけるだろうし、鼻先が触れ合うどころの話では無くなる。 ヒイロはそう説明しようとして、こういうのは論より証拠、百聞は一見にしかずだと思い直す。
「なら、確かめてみればいい」
「どうやっ…………ん、ッ……
 ただでさえ狭い隙間を詰めるのは一瞬で、リリーナは自分のヒイロの発言が意味するところを理解すると同時、言葉を甘く塞がれたのだった。
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