
雫が床とぶつかる音。その残響は石造りの塔において長く、空間の広さが窺える。丁寧に鉄格子が嵌め込まれている窓から見える空は暗く、雲に覆われている。
(……今晩はここで過ごすか)
雨の止む気配は無い。むしろ時間が経つにつれて雨音は増し、濡れた土の匂いが濃くなっている。
野宿よりは警戒が緩くて済む。少年はそう思いながら被っていた布をばさりと取ると、雨水を吸って重くなった布を抱えながら螺旋階段を登り始めた。
***
遠くから靴音が聞こえてくる。まるで塔そのものが心臓を持っているように、その音は低いながら確かな響きを持っている。徐々に近付いてくるその音に少女は顔を上げると、扉の方に視線を向けた。
(……誰?)
何日かおきにここを訪れる世話人のものとは異なる音だ。少女は盗賊と呼ばれる者が入ってきた可能性を考えたが、そもそも許可無くこの塔のある森に入ることはできない。
ますます靴音の主の正体が分からず困惑する少女を他所に、靴音は扉の前でぴたりと止んだ。そのまま入ってくるのだろうかと身構えるものの、一向に扉が開かれる気配は無い。
少女はしばらくの間瞬きを繰り返していたが、やがて目を閉じて息を深く吸うと、先程心の中で呟いた台詞を口にした。
「……誰?」
***
(人間がいたのか)
少年は声には出さず、しかし確実に内心で焦りを感じていた。他者の気配に敏感な筈の彼が、声をかけられるまでその存在に気付かなかった。雨で嗅覚が鈍くなっていることを加味しても、今まで生きてきた中では初めてのミスと言えるだろう。
このまま立ち去るか、声に応えるか。決断するには動揺が邪魔をしている少年を知ってか知らずか、扉の向こうの声の主は言葉を続ける。
「申し訳ございません。その扉は外からしか開けないので、声だけで失礼させて頂きます」
「……外からしか開かない?」
疑問は意図せず声となった。遅れて気付いた少年が咄嗟に口を閉じるも、後の祭りだ。扉の向こうからは「男性の方なのですね」という呟きが聞こえる。
「わたくしは……わたくしの名前は、リリーナ・ドーリアンといいます。あなたは?」
丁寧な名乗りと己に投げかけられた問い。少年は顔を顰めると、古びた塔にしては豪奢な取っ手に指をかけた。力を込めれば軋んだ音を立てながら扉は外側へ開いていき、やがて部屋の内部が露わになった。
どうやって運び込んだのか不思議な程に大きい天蓋付きのベッド。壁面に沿って取り付けられた棚には様々な言語で書かれた様々なジャンルの本が詰められていて、中央には暖炉も付いている。窓に面した机の卓上ランプは仄かな明かりを灯し、鏡台の隣には小さいながら洗面台もある。
上流階級の者が住むような屋敷を一部屋に凝縮したような内装。見たところ電気も水道も通っていて、窓に鉄格子があることと、扉が外からしか開かないことを抜きにすればあまりにも贅沢な空間だった。
そんな部屋の中央に位置する椅子には、ひとりの少女が座っていた。腰まで届く長い金の髪に、青い目と薔薇色の唇。容姿にあまり興味が無い少年からしても、整った顔立ちなのだろうとは思えた。
その反面、服から見える腕や脚は細く、病的ともとれる白さだ。表情はあくまでも穏やかな微笑みだが、どこか生気が欠けているような、そんな気がした。
「どうぞ、中へお入りください」
「……雨宿りでここに来た。服はすべて濡れている」
「それは大変でしたね」
リリーナと名乗った少女は口元に手を当てると椅子から立ち上がる。髪を靡かせて小走りで衝立の向こうまで行き、しばらくしてまた戻ってくる。
「どうぞ。シーツですが、洗濯はしてありますし、替えもまだあります」
ずい、と目の前に白い布を差し出され、少年は静かに困惑する。
状況と発言から察するに、リリーナはここに閉じ込められているのだろう。食事は恐らく生命維持に必要な最低限。自傷行為、自害の痕跡が見られないことから察するに、閉じ込めた者からしてみれば厄介者ではあるが、死なれても困るといったところだろう。
不遇である筈の存在。なのに、どうして見ず知らずの相手にここまでできるのだろうか。
「……この辺りの雨は冷えるわ。せっかくのお客様ですもの。風邪を引かない内に、せめて、身体を拭うだけでも」
返事をしない少年を不思議に思い、リリーナは近くまで歩み寄ると少年の顔に影を作っている布に手をやる。吸いきれなくなった水が床に滴るのは構わないが、濡れたままの姿で佇む少年は見ていて寂しく思える。
―まるで泣いているようだ。
リリーナはそんな自分の直感が正しいかどうかを確かめようとした。
「…………ッ、!」
「きゃっ………!」
しかし、リリーナが指に力を込めて布を取ろうとしたその瞬間。弾かれたように少年は身を翻して距離を置いた。その身のこなしは洗練されたものではあったが、だからこそなのだろう。ただでさえ雨水を吸って重い布はその動作に追い付かず、少年が着地すると同時に勢いよく床へと落下した。
「あなた、は…………」
窓の外では雷鳴が轟いている。暖色で統一された部屋に射し込む閃光はどこか硬質で、少年の姿をぼんやりと照らし出した。
一目見ただけでそうと分かる、上流階級の貴族の者の衣服。雨の中を歩いたので泥が跳ねてはいるが、靴は傷みが少なく、丁寧に磨かれていることが分かる。そして何より、リリーナが目を奪われたのは。
「あなたは……宇宙の色をしているのね」
茶色の髪の隙間から覗く瞳。ここの窓から、幼い頃は王宮のバルコニーから見上げた、星の泳ぐ深い青。少年の瞳はまるでその色を凝縮したような色だった。
「見たのか」
「え…………?」
懐かしい記憶に思いを馳せていたのも束の間、唐突な問いかけにリリーナは否応無しに首を傾げた。何かを答えようにも、少年の質問の意図が分からない。質問に質問で返すのは心苦しいが、噛み合わないまま話を続ける方が無意味だろう。
その考えから口を開こうとするものの、先に少年が動くのが先だった。先程とは逆に今度はリリーナへと近付くと、その腕に抱えたままのシーツを手に取ってマントのように羽織った。
「耳を貸せ」
「? 分かりました」
リリーナは頷くと、言われるままに髪を耳にかけて言われるままに耳を少年の方に向ける。更に距離は縮まるが、感謝の言葉でも言われるるのだろうと信じて疑わなかった。
「お前を殺す」
そう。だからこそ、続いた言葉に咄嗟に反応できなかったのだ。
「…………な」
絶句するリリーナを少年は感情の起伏の無い瞳で見下ろす。激しさを増す雨風や雷鳴も、この瞬間においては遠い世界の出来事でしか無かった。何回目かの雷が空気を震わせたのを機に、少年は何も言わずに部屋の外へと出ていった。
咄嗟にその背中を追いかけようとするも、目の前で扉は再び閉ざされる。去り際に少年が閉めていったのだろう。律儀と言えば聞こえは良いが、だからといって最後の台詞が帳消しにされた訳でも無いのだが。
「何なの、この人…………」
リリーナの呟きが部屋に小さく木霊する。
嵐はまだ、収まりそうに無い。