UNTITLED TALES

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「『湖の畔の家には、遠い国の王子様とお姫様が住んでいる』……ですって」
 リリーナのその言葉にヒイロは朝食を口に運んでいた手を止めた。白いプレートの上で目玉焼きの黄身がとろりと広がり、程良く火の通ったウインナーにぶつかる。甘い玉葱とパセリの香りがするスープの湯気の向こう側、リリーナはこう続けた。
「一昨日に病院へ行ったでしょう? その時、来ていた子供達が話していたの」
「顔は」
「見られていません。私はお母様の病室にいて、声がしたのは廊下からだったから」
…………そうか」
 問題は無いと判断したヒイロは食事に戻る。すっかり黄身に浸かってしまったウインナーを箸で救出すると、ぽたぽたと黄色い足跡がプレートについた。肉汁と黄身が混ざり合っている様子を目で追っていたが、ふと気になってヒイロは顔を上げる。
「そもそも、何故そんな話になったんだ」
 自分には遠く、理解の及ばない範囲での空想。ましてや幼子による突飛なものだ。しかしリリーナは思い当たる部分があるようで、スプーンでこくりとスープを飲んだ後、それこそ幼子のような表情を浮かべた。
「きっと、この家がそう見えるからじゃないかしら」
 この家。薔薇園のある、湖の畔の家。かつてリリーナが住んでいたドーリアン邸のような豪邸ではないが、二人で住む分には十分な広さだ。
 確かに中流階級、またはそれ以上の者が慎ましく過ごしていると思われても不思議では無いだろう。住人が王子や姫という極端な例なのは、幼いが故のある種の憧れか。
 リリーナは突然食事の手を止めたヒイロを不思議そうに見ていたが、先程自分がした発言を咀嚼している最中だと気付いたのだろう。小さく笑うと、リリーナは首を傾げながらずいと顔を近付けた。
「子供はそういうものなのよ、『星の王子様』?」
 至近距離で零れた言葉と呼び名に、ヒイロの思考回路は数秒間停止した。眼前にある悪戯に成功した時のような表情は年相応と言うべきか。そういったリリーナの一面に触れる度、どうにもヒイロの胸がざわめく。不快では無いからこそ余計に制御が効かなくなるのだ。
 ヒイロは乱れた感情を紛らす為に、皿に盛られていたリンゴにフォークを刺した。しゃくりと鳴った瑞々しい音はリリーナの要望で兎の形を模してカットしたこともあり、まるで雪を踏んでいるかのようだった。
…………随分と物好きな姫だな」
 何か言われる前にとリリーナの唇へ果実を宛てがう。それをされた本人は目を瞬かせながらリンゴとヒイロの顔を交互に見ていたが、遅れて現状を理解したのだろう。途端に頬を赤く染めて慌て始めた。
「ヒイロ……っその…………
「いいから食べろ」 
「え、ぁ…………は、はい……
 しばらくの沈黙の後、おずおずと開かれた口がリンゴを小さく齧る。どこか小動物を彷彿とさせる仕草に、自然とヒイロの目元も和らいでいった。もっとも、リリーナは二口目で羞恥に耐え切れず両手で顔を覆ってしまったので、そんなヒイロを見ることは叶わなかったのだが。
 
 湖の畔の家に住む、遠い国の王子と姫。遅い青春を楽しむように、今日も二人は時を重ねる。
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