SILENCE

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 沈黙に彩られた世界。人々の雑踏も恋人の囁きも、ここでは何もかもが静寂の中に消えていく。雪が積もりいつもより足元が悪くなっている煉瓦道を、ヒイロとリリーナは並んで歩いていた。
「静かね……
「雪だからだろう」
 傘があろうと風によって入り込んでくる白い欠片は肌にぶつかり、その場で溶けて輪郭を曖昧にしていく。そうしてヒイロの頬を流れていった空の涙を横目で見たリリーナは手を伸ばし、手袋越しの指でそっと水滴を拭った。
……なんだ」
「ふふ、ごめんなさい。何でもないわ」
 リリーナは傘の中でくるりと回ってみせる。手入れの行き届いた長い髪もまた、それに合わせるように冬の空気のダンスホールで軽やかに舞った。
 それでも彼女に雪が一切付かないのは、傘を持っているヒイロが雪の軌道を読んでさりげなく傘の位置を調整しているからだ。リリーナが自分で差せばその必要も無くなるのだが、「誰かと一緒に傘に入ってみたかったの」と言われては、それを叶えない訳にはいかない。そんな訳で、ヒイロのもう片方の腕にはリリーナの傘が閉じたままぶら下がっている。
……お前は、理由の無いことをしないだろう」
 ヒイロはそう呟いた。あまりにも小さい、隣にいたリリーナでさえ聞き取れなかったほどの声量で。唇が動いたこと、そして吐き出された息が白く染まったことで辛うじてヒイロが何か言ったのだと分かったのだ。
……ヒイロ?」
「大したことじゃない」
「いいえ、」
 だから二度も言ってまで伝える必要は無いと続ける筈だったヒイロの言葉は、リリーナの微笑みによって声にはならずに飲み込まれる。
広いとは言えない傘の中、再びリリーナの髪が踊る。細い金の軌跡の持ち主はそのままヒイロの前へ移動すると、少しだけ姿勢を低くしてその顔を下から覗き込んだ。
 感情の起伏が読み取りにくい、いつも通りの表情がそこには浮かんでいる。けれど、リリーナは知っている。声の調子や瞳に宿る温度、そして息遣い。視覚に頼り切りになることを止めれば、意外とヒイロの感情は分かりやすいのだと。
「言って…………だって、私はあなたの言葉が好きなのだから」
 歌うように零れ落ちたリリーナの言葉が傘の中に響く。
 聞き間違いか、もしくは自分に都合の良い幻聴か。ヒイロは一瞬そう思ったが、ノイズが混ざるにしてはあまりにも辺りは静かだ。柔らかさと意志の強さを兼ね備えた声が確かに自分の耳を打ったという認識もある。
 だからといって返す言葉がすぐに見つかる訳でも無く、そもそもリリーナの真意さえ分からないのだ。今までの会話の流れを脳内で振り返ってはみるものの、どうにも頭が回らない。
…………ヒイロ?」
 リリーナは先に行こうとしていたが、立ち止まったままのヒイロを見て再びその顔を覗き込む。そこに浮かんでいる感情を正確に読み取ったリリーナは瞬きを数回繰り返すと、思わずといったように笑った。
「なら……『ありがとう』と言ってください」
……良いのか、そんな事で」
「ええ。誰にも駄目とは言わせないわ」
 瞳を輝かせながらその瞬間を今か今かと待っているリリーナ。促されるままに要望通りの言葉をリリーナの耳元に落とせば、目の前の澄んだ瞳が嬉しそうに細められた。
「満足か」
「ええ……ありがとう、ヒイロ」
 続いて囁かれた言葉はヒイロが言ったものと同じ五文字だった。違う点を挙げるならば、リリーナはヒイロの頬を両手で包み込み、寒さで赤くなっている鼻の頭にそっと唇で触れたことだろうか。
「ふふ。言っても言われても……どちらでも嬉しいのよ?」
 だからこれは私からのお礼ですと、リリーナは白い息を零して微笑む。その声は、その表情は、冬にしてはあまりにもあたたかく。
……そうか」
 その温度が移ったかのように、ヒイロも小さく口の端を上げて顔を綻ばせるのだった。
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